『イグアナの娘』から…その1

 

子供の頃、好きだった漫画家さんのひとりに、萩尾望都さんがいました。
子供の頃から、SF小説、SF映画、SFアニメ、SF漫画などが好きだったので
その流れで好きだった作家さんでした。

 

子供の頃、好きだった漫画家さんのひとりに、萩尾望都さんがいました。
子供の頃から、SF小説、SF映画、SFアニメ、SF漫画などが好きだったので
その流れで好きだった作家さんでした。

そして最近、Kindleなんてものを利用していると、
読みたい本がKindleになっていると
たったワンクリックで読めてしまうんですね。

ということで、ついつい萩尾望都さんの漫画が懐かしくて
これまでに読んでいなかったものを、いくつか読んでしまいました。

その中に今日のブログのタイトルにした
『イグアナの娘』があったんです。

この漫画、何年か前に、実写でドラマにもなってもいるようですが、
今回はドラマは関係なく、あくまでも原作のお話しです。

実は、この『イグアナの娘』を読んでみると
あれれー、これって私のことが書いてある?
なんて思えてしまった内容だったのです。

これまで、SFがらみで萩尾望都さんが好きでしたが、
実際には萩尾さんの作品はSFに限らず、多岐にわたっています。

この作品も、少しファンタジーが入っているものの、
実際にご自身が体験してきた母と娘の関係を元に描かれたそうです。
私も、これって私のこと?と感じたのは、母と娘の関係性でした。

主人公の母親は、主人公である自分の娘のリカがイグアナにしか見えない。
でも、イグアナに見えてしまうのはリカだけで、
次に生まれた娘は、ちゃんと人間のかわいい女の子に見えるので
母親は主人公のリカを疎ましく扱い、妹ばかりを可愛がるという話です。

これだけを聞くと、ちょっと突拍子のない話に聞こえるものの、
ドラマにもなっていたということは
この話に共感する人がけっこういたということかもしれません。
かくいう私も、ついつい共感してしまったのですし。

私の場合は、兄弟は弟ですが、
子供のときは、母親の態度は、私と弟では、まったく違ったものでした。

中でもひどい話では、私は母からずっとバカだと言われ続けていたのですが、
弟に対しては「この子は頭の良い子だから」と言い続けていました。
なので、私もずっとそうなんだと思っていたのですが、
少し前に、実家を売却するために家の整理をしていたら、
私と弟の子供のときの通信簿が出てきました。
それを見てみると、母親に言い続けられてきたことと実際が
まったく逆の数字が並んでいて、
しばらく頭の中で整理がつかなかったということがありました。

子供のときだって、実際に数字で出ている成績を見れば
母に弟と比べてバカだと言われても
決して卑屈になる必要などなかったはずなのですが、
子供のときって、とくに母親に言われてきたことは
そのまま鵜呑みにして受け取ってしまうようで、簡単に洗脳されてしまうものなんですね。

『イグアナの娘』の話の中でも、主人公が母親からグズだと言われ続けていたから
妹も姉はグズだと思い込んでいたし、本人もある部分は開き直っていても
どうしても卑屈さはぬぐえないようでした。

そんな母親を、当然ですが、ある時期までは、私はとても嫌っていました。

それが少しずつ変わってきたのは、瞑想を続けて、
自分自身の深い意識に入っていったときのことでした。

とても嫌っていたはずの母親が瞑想の中で出てきたことがあったのですが、
そのときに、自分自身の中にある、さらに深い意識に入っていくと、
私が母を嫌っていた本当の理由が見えてしまったことがありました。

それは、私の中にあった、母に対する愛情欲求の裏返しだったのです。
本当は大好きな母だったのに、弟ばかりを可愛がって
私のことはかまってくれなかったから、だから大嫌いになっていたのでした。

そんなことは、他人から見れば、一目瞭然で当たり前のことかもしれませんが、
当の本人がそれに気づいたときというのは、茫然自失としてしまうのですね。
それまで大嫌いだったはずの人が、本当は大好きだったなんて、
本人にとっては、もっとも見たくなかった自分自身を見つけてしまったような
そんな気分で、しばらく唖然としてしまったことがありました。

でも、自分の本心を自分で見つけることができると、
そのときはショックであっても、そこから浄化が始まってきたように感じます。

オーラソーマのセミナーの中に、『カウンセリングスキル』というものがあるのですが、
そのセミナーの中で、自分のもっとも嫌いな人を象徴するボトルを選ぶ
というものがありました。

ちなみに、ほとんどの女性がもっとも嫌いな人に選ぶのは
自分の母親か夫なのだそうです。
私も例に漏れず、もっとも嫌いな人に母親を選んでしまいました。
そのときにはすでに、本当は好きなんだけど、
という自分の気持ちはわかっていたのですが、
私が自分の気持ちを理解したところで、母親の態度は相変わらずだったので
もっとも疎ましい人は、やはり母親以外にはいなかったのでした。

でも、それでもやはり、自分自身の本心を理解しているので、
選んだボトルは、他の人とは、ちょっと違っていました。
ほとんどの人が、自分の嫌いな母親を象徴するボトルは、

 

だったり

 

 

こんなんだったりと、ちょっと黒っぽくて、ちょっとハレーションを起こしそうな
そんなボトルを選ぶ人が多かったように思います。

もちろん、これらのボトルは、いっけん癖のある色として見える人が多かったとしても、
とても癒やし効果の高いボトルであることには間違いありませんが。

で、そのときの私が選んだ母のボトルはこれでした。

 

 

自分をかわいく見せるのがうまくて、でも、本当にかわいい女性で、
弱い部分をたくさん持っているというイメージでした。

本当は好きなんだという自分の気持ちを理解していたから
こういう選択になったのかなと、いま思い返してもそう感じます。
自分の気持ちがわかっていないときであったら、
やはり、上のちょっときつめのボトルを選んでいたように思います。

そう考えると、この場合の黒(実際にはディープマゼンタですが)は、
見えていないものの現れなのかもしれませんね。

それにしても、深い意識にあるものは、一度に浄化が起こるということはなく、
私の場合は、少しずつ少しずつ浄化されていったのかなと感じています。

母親の方の浄化が起こったのは、母親が亡くなる数ヶ月前のことだったと思います。
死のほとんど直前にそれが起こり、そして死を迎えたというか。
そういう意味では母の死は、とてもいいタイミングで迎える事ができたのかもしれません。

そして、母と私の双方で浄化が起こったときに、
ようやくそこで、二人の関係性が変わることができたのでした。


ということで、長くなったので、そのうち続きを書きます。