オーラソーマと仏教

 

前回は、仏教について、少しだけ書いてみました。

「仏教に傾倒していながら、オーラソーマもやってるの?
仏教とオーラソーマって、まったく異質なものに感じるんだけど。」
というようなことを、たまに質問されることがあります。
 

確かに、日本の仏教を見ていると、
とくに寺院などにあるお墓のイメージからの印象だけを見ると
簡素で、色彩のないモノトーンの印象を受けるのは、私も同じであり、
その印象だけだと、仏教とオーラソーマは
まったく別物と、捉えることも理解できます。

しかし、ひとたびチベット仏教の曼荼羅に意識を向けてみると
その色彩の鮮やかさには目を見張るばかりです。

そして、チベット仏教に伝わる瞑想法では、様々な色の仏や光を観想します。

そんな光の瞑想が、私はとても好きで、ひとたび瞑想を始めると、
その光の世界に、ずっと留まりたくなることはしばしばです。

そういう意味では、私にとってオーラソーマは
そんな仏教の持つ、光の世界と共通するものを感じるのです。

もちろん、オーラソーマの色を見るときは、
仏教の世界観に基づいた、光の世界をイメージするときもあれば、
この現実世界に根付いた色として見ることもあります。

しかし、たとえば、オーラソーマの中でも
たとえば、レッドという色を見たときに
それがネガティブな意味合いで見たならば怒りであったり、
ネガティブなセクシャリティであったりしますが、
そのレッドに光が入ってピンクとなったときには、
その意味合いも、無条件の愛へと変容していきます。

ただ、オーラソーマでの無条件の愛は、
自分自身を愛すること、ということに留まることが多いのですが、
仏教では、自分を愛するように他を愛しなさいと言っており、
エゴを捨てた状態での、本当の意味での無条件の愛は
利他心や慈悲へとつながり、
そんなエネルギーが広大無辺に広がっていった先にこそ、
大いなる悟りが待っているとも言われています。

もちろん、そのベースには、
自分自身を愛することができていなければ、
先へと進むことはできないわけで、オーラソーマも仏教も、
そういう意味では矛盾はしていないとも言えそうです。

オーラソーマは、純粋に色の光であり、
そこから何を連想し、どう広げていくかは、それぞれが自由に行えること。

そして、そんな自由なエネルギーが、
オーラソーマの魅力のひとつのようにも感じるのでした。