その9 バルドー


バルドーとは、『チベット死者の書』に書かれているように、
肉体を持った魂が死んでから、次の生に生まれるまでの中間状態のことを言います。
通常は49日の間に次の転生が決まると言われ、
日が経つにつれ、低い世界というか、苦しみの多い世界に転生する確率が
高くなっていくようです。
また、バルドーの間は、意識は肉体を離れてしまっているので、
たいていの魂は、その肉体のない状態に、違和感や焦燥感とともに苦痛を感じ、
次の肉体を求めてさまようとも言われています。

このチベット死者の書には、死んでから何日目には、何色のどんな光が表れ、
どんな状態になるから、できることなら、いついつの時には何色の光に飛び込めと
いうようなことが克明に記されています。
このように、チベット死者の書の内容は、たいへん神秘的なのですが、
その起源も、とても不思議に満ちています。

チベットでは多くの人に信仰が篤いパドマサンバヴァという大聖者が
8世紀に埋蔵して隠しておいたものを、
カルマ・リンバという発掘者が14世紀にヒマラヤの山中から発見したというのが
このチベット死者の書の起こりということです。
パドマサンバヴァの埋蔵書は、他にも幾つもあり、
チベット死者の書のように、すでに発見されたものもあれば、
まだ発見されていない書もあるとされています。
それらの発見されていない埋蔵書は、これから私たち人類に準備ができたときに
発見されるように、パドマサンバヴァによってプログラムされてるそうです。

チベットの人たちには、このチベット死者の書の教えが浸透していて、
死んだらどうなるということを、僧侶だけではなく、一般の人たちも理解しているようで、
そのために、チベットの多くの人たちは、死の恐怖から解放されているのかもしれません。
多くの恐怖の原因は、それがどんなものか分からなくて、
分からないことから恐怖に変わっていくことが、とても多いように感じます。

さて、話をせーりー君のことに戻します。

魂が肉体を離れるとき、多くの魂は混乱し、おののくことと思います。
でも、それでも、せめて死ぬ直前には、心を少しでも落ち着けるよう導くことができていれば、
そこで起こる混乱は、少しでも和らいでいくのではないかと思います。
でも、せーりー君は、せーりー君の知らない場所で、知らない人に囲まれ、
心は不安なままに、意識が肉体を離れることになってしまいました。
まだ、体に体温がわずかでも残っているうちに、家に連れて帰ることができたことは、
これは私にとってだけかもしれませんが、本当に、せめてもの救いのように感じたくらいでした。

家に帰って、せーりー君を祭壇の前のクッションに寝かせようとしたとき、せーりー君の肉体が、
ちょっとした弾みで、私の腕の中で、私の体にもたれかかった瞬間がありました。
その時、なにか、せーりー君が、やっとホッとできたと思ったように感じたのでした。
それは同時に、どんなにか、せーりー君は、長い間、こうしたくても出来なかったという思いが
伝わってきたように感じた瞬間でもあったのです。
その時は、私は、すぐに病院からせーりー君を連れて帰らなかったという
後悔と自責の念でいっぱいになってしまって、
「ごめんね、本当にごめんね。」と、心の中で繰り返しながら、
しばらくそのままの状態で、座り続けることしかできませんでした。

その後、せーりー君をクッションの上にソッと寝かせると、
そこには、まるで、まだ生きているときと同じような姿で眠っているせーりー君がいました。
それからしばらくしても、不思議とせーりー君には死後硬直が起こらず、
そのまま体が冷たくなっていったのでした。

しかし、時間が経つにつれ、空間のエネルギーが
何かおかしくなっていくのを、ハッキリと感じてきました。
いずれかのチベット死者の書の本の中で、あるラマ(チベットの高僧)が、
死んだときは、閉所恐怖症のような状態が起こってくると書いていました。
まさに、その時の私自身が、閉所恐怖症のような感じで、圧迫感を強く感じ、
意思を強く持たなければ、パニック症状が起こりそうな感覚になってきたのです。
その閉所恐怖症が、なぜ起こってくるかというと、
その時に私が感じた言葉を、そのまま伝えると、『カルマの制約』を
あまりにリアルに、ハッキリと感じてしまったからでした。

『カルマの制約』と、ひと言で書いても、言葉の意味が分かる人でさえ、
ピンとこないかもしれません。

ここに生きているすべての人は、過去や過去世で自分がやってきたことの結果として、
いま現在、この環境に、この姿形で、ここに存在しています。
そこでは、ひとつひとつの小さな癖や、些細な思考のすべてにおいてさえも、
それらはすべて、過去に成した行いの結果によって、そのことが起こっています。
それが、良い意味でも悪い意味でも、カルマと呼ばれるものです。
そのカルマというものは、普段は、当たり前のこととして認識する機会は少ないと思います。
でも、認識しようとしまいと、私たちは、そのカルマというものの制約を受けた状態ででしか、
どういう行動を取るかもそうだし、何を話すかもそうだし、どういう心の働きをし、
どういう思考や趣向を持つかさえも、その制約の中からしか選択することが出来ないのです。
すべて、自分の意思で自由に行っていると思っていても、
本当は、そのカルマの制約に、縛られてしまっているのが私たちなのです。

しかし、本来の私たち、それは、魂よりも、さらに純粋な存在である真我というものは、
何にも制約されることなく、本質的な自由の中で、
本質的な愛と平和から生じる歓喜に包まれて、存在しています。
そして、その私たちの本質である真我の状態を感じることを妨げているのが、
物質や肉体など、形のあるものに対するとらわれや執着であり、
それらがエゴという形を取って形作っているのが、カルマの制約と言うことになるのです。

本当に言葉にすると、とても難しくなってしまって、伝えにくいことなのですが、
とにかくその時は、そのカルマの制約を、ものすごくリアルに強く感じてしまい、
それが、閉所恐怖症のような、パニック症状を起こしかねない状態の
原因となってしまっていたのです。
そして、そのカルマの制約は、テレビの音を聞くだけでも、さらに強く感じてしまうし、
普通に人と話をするだけでなく、見るだけでも、
その人自身がカルマの制約に縛られていることを自分のことのように感じてしまうのでした。

チベット死者の書には、肉体を持つ生き物が死んで、魂だけになったとき、
肉体を持つことができない焦燥感とともに、
肉体を持たないことによって、意識は、よりリアルにハッキリとしてくるので、
今までは、見えてこなかったことが、見えてくるようになると言っています。
しかし、その意識のリアリティは、必ずしも心の安定をもたらしてはくれません。
むしろ、例えば他人の心がハッキリと見えてしまったときには、多くの場合は、
そんなことを考えていたのかと、ショックを受けることの方が多いのではないでしょうか。

それと同時に、肉体がなくなってしまったことによって、
今までは、表層意識で自分自身にさえも隠していた潜在意識があらわになってくるので、
自分の求めることを、すさまじい強さで感じることとなり、
それをコントロールすることが、とても難しい状態が訪れてきます。

仏教において、執着が良くないというのは、例えば肉体や物質に執着したとしても、
それらは私たちの本質では持つことのできないものです。
ですから、それは、肉体を失ってしまったときに、その執着が、
とても大きな苦しみを生む原因となってしまうのです。
と同時に、それらは、私たちが本質的に持っている真我の状態である、
自由と歓喜と平和や愛などの幸福の状態を見えなくし、阻害してしまうものであるからなのです。

そして、このときの、私とせーりー君と、夫やミラムちゃんの状態は、
まだまだ一緒にいたいのに、離ればなれになってしまうという苦しみと、
そして、これからどうなるか分からない恐怖のバルドーで、
空間がゆがんだような状態になってしまったのでした。
そうなんです。
私も夫も、せーりー君のバルドーに、意識がすっかりと引きずり込まれてしまい、
まるで、一緒にバルドーに入っているような状態になってしまったのでした。

そして、現にせーりー君は、その苦しみに耐えられなかったようで、
家にあるものを、ことごとく壊すことで、それを表現していました。
私の今までの経験上、死んで魂だけになったときに、
おそらくは思念の力で物を壊すことができる魂と、
それができないか、あるいは、それをしない魂があるように感じています。

過去に癌で亡くなった友人は、自分が死んだら、真っ先になにかの形で知らせるからと
生前から言っていたのですが、実際になくなった時間に、
私の家で、ただ置いていただけの腕時計が、いきなり割れたことがありました。
でも、その腕時計の割れ方は、外からの力ではなく、内部からの力で割れた形跡が残っていました。
その後、その時計を、時計屋さんに修理に持っていったときは、お店の人も、
こんな割れ方はあり得ないという驚きとともに、こうなったのは、この時計だけで、
他の同じ時計は、こんな風になったことがないので、製品自体には問題ないと
しきりに言い訳をして、新しいのに取り替えてくれたときには、
たいへん申し訳なく感じてしまいました。

せーりー君のときも、同じようなことが起こっていました。
私がお風呂に入っているときに、10回くらいタオル掛けが
直しても直しても落ちてしまうと言うことがありました。
また、それだけならまだしも、シャワーヘッドをかけておく場所が、崩れて落ちてしまい、
見ると、壁の中に入り込んでいるネジが、壁の中で折れているという、
普通では考えがたい壊れ方をしたりもしていました。
それ以外にも、夫も私も、もうひとり残ったネコであるミラムちゃんも
家族全員が2階にいるのに、下の階で、ネコが今まで、いたずらしていたときのように、
ガッタン、ガッタンと、物が動く音がハッキリと聞こえ続けていたりしていたのでした。

あきらかに、すべては、せーりー君が苦しんでいるから、やっていることなんだと分かるので、
どうしたらいいだろうと、祭壇をふと眺めながら、
いつも夢に出てきてくれる守護者の方を思い浮かべると、
「やっと私に意識を向けたな。」という、今度は守護者の方の声がハッキリ聞こえてきたのでした。

 

 

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