その5 白いネコのお話 後編

 

その夢の中では、サリーちゃんは人間で、比丘尼でした。
国はどこかはわかりませんでしたが、比丘尼の格好をしているわけですから、
アジア圏内であることには間違いありません。
少し様子を見ていると、どうやら位の高い比丘尼のようです。
しかし、ある時、比丘尼としての戒律を破り、ある男性と恋をしてしまったのでした。
そして、その戒律を破ってまで行ってしまった恋の結果によって、
人間からネコに姿を変えてしまったというような夢でした。

この夢は、現実と変わらないくらいに、というか、現実以上に、リアルな夢でした。
どこまでこの夢が正確なのかは調べようがないので分かりませんが、
目が覚めたときは、深い意識から、これに近いようなことが
実際にサリーちゃんに起こったんだなと、なにか確信を持って感じたのでした。

サリーちゃんの人生というか猫生は、うちに来るまでも大変なものだったようです。
というのは、本当は、子猫は生後40日経てば、里子に出していいとされているのですが、
サリーちゃんが、うちに来たのは、50日を過ぎてからでした。
これは、サリーちゃんが、うちに来るまでに、最初はちょっとした風邪がもとで
死にそうになってしまったのを、実家の四条さんの献身的な介護によって
何とか生かされ、そして、完全に回復するまで
四条さんのところにいたという経緯があったからでした。
うちに来てからも、ノミ騒動なので、しなくていい苦労をさせてしまったように思います。

そして、サリーちゃんの最初の記事のところで、数ヶ月だけ一緒に暮らした、と書いたのですが、
これは、けっきょくサリーちゃんは、生後半年ほどで旅立ってしまったということなのでした。
やはり、ちょっとした病気がもとだったのですが、サリーちゃんの体力が持たなかったのでした。

サリーちゃんは、前回で書いたエピソードでもわかるように、
子猫とは思えないくらいに、知能は高いと感じていました。
でも、身体能力は、身体が柔らかいという以外は、猫なのにぜんぜん駄目で、
とくにひどかったのは、食事をとるのが、信じられないくらいに下手くそでした。
お皿から、直接にご飯を食べるのが苦手で、あり得ないくらいに時間をかけて
食事を取っていたのですが、そのせいもあって、身体はいつまでも小さなままでした。
下手くそでも、そうやって食べるしかないので、だいたいは食べ終わるまで放っておいたのですが、
ちょっと焦れてしまうときは、お箸にエサを乗っけて、サリーちゃんの口元まで持っていくと、
それは、いつもやっていることのように、上手にパクッと食べることが出来たのです。
もしかしたら、前生からの経験で、口で直接食べるという行為には慣れていないのかもと、
そんな風に、よく感じていました。

比丘尼というのは、神に仕えると誓った身であるということです。
それでいながら、他の男性と恋をしてしまうということは、
例えるならば、愛情がどこまでも深く、すべてを与えてくれる夫がいながら、
他の男にうつつを抜かして裏切ってしまうという行為に
近いものがあると考えればわかりやすいでしょうか。
サリーちゃんのネコとしての生は、まるで、その過ちを精算するための、
生だったように感じてなりませんでした。

というのは、サリーちゃんが、旅立つ二日ほど前から、
サリーちゃんの容姿がみるみる美しくなっていったように見えたのでした。
私がうたた寝をして目が覚めると、枕元にサリーちゃんが座っていたのですが、
その様子が、とてもキレイなのにびっくりして、
「なんだか、急にキレイになったね。」
と言いながら、頭をなでると、いつになく甘えた様子で目を細めていたのが印象的でした。
そして、その矢先の旅立ちでした。

サリーちゃんが、息をひきとってから二日ほどした頃、サリーちゃんが、天界に生まれた夢を見ました。
その夢の中では、サリーちゃんは、美しい少女になっていて、

「ありがとう」とだけ、言いに来た夢だったのでした。

サリーちゃんを荼毘に付すときは、まだ身体も小さくて大変ではないから、
最後まで自分たちの手でやろうと決め、インドのバーラナシーで見たように、
丹沢の山の中に入って川べりをみつけ、火葬を行うことにしました。
その時は、ちょうど11月ということもあって、季節外れで、人は誰もいませんでした。
晴れた日を選んで、マントラを唱えながらの火葬を行ったわけですが、
そこでも、とても不思議なことが起こったのです。

丹沢には、野生の鹿が住んでいるのですが、
野生の鹿は、決して自分から人の前に姿を現すことはないとされています。
でも、サリーちゃんの火葬が、そろそろ終わりに近づいてきた頃、
私たちがいたその場所に、野生の鹿が走って来ました。
そして、本当に不思議なのですが、私たちのいる
わずか1メートルか2メートルほどの所で立ち止まり、
まるで黙祷を捧げているかのように、こちらを数秒ほどジッと見つめていました。
そして、また走り去って行ったのですが、姿が見えなくなるまで、
時々こちらを振り向きながら、立ち止まるを繰り返して去っていったのです。

鹿は、お釈迦様がインドのサルナートで初転法輪(しょてんほうりん)と言って
初めて説法をされたとき、その説法を聞いていたのが、
5人のお弟子さんの他に、その地に生息する鹿たちも一緒に、
お釈迦様の説法に聞き入っていたという逸話があります。
そのため鹿は、仏教に縁の深い動物とされ、今でもサルナートと、
そして、その故事に習って、奈良公園でも大切に飼育されているそうなのです。

もちろん、その時に私たちの前に姿を現した鹿が
仏教に縁の深い鹿かどうかは分かりませんが、
でも、そのとき起こった現象は、サリーちゃんが本来は仏教的な転生を
繰り返している魂であることを、示唆する出来事のように感じました。

そして、その後、空は晴れているにもかかわらず、雷が鳴り、
それと同時に、それは、私の耳にはハッキリと、
「ありがとう。」という、サリーちゃんの声が、空から聞こえたのでした。

初めて会ったとき、ネコなのに光を感じたことの不思議。。。
一緒に暮らしているときは、利口だけど、ちょっと斜に構えたような性格は、
もしかしたら、ネコの身体が、うまく扱えなくてしんどかったからなのかもしれません。
そして、荼毘に付す、最後の最後まで、やっぱり不思議を残してくれたサリーちゃんは、
時間にしては、とても短いおつき合いでしたが、
なにか、いつまでも、私の心に残り続ける存在となったのでした。

そして、サリーちゃんのことも、せーりー君のことと同様に、
輪廻転生の不思議を実感させてくれたこととして、
こうして記録に残しておきたいと思ったのでした。

 

 

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