2章 タヌキの赤ちゃんから感じたこと

 

前回の記事のときには、最初に拾ったタヌキの赤ちゃんは
大けがをしていた、ということだけを書いたのですが、
実際には、ケガをしたところ に、ハエが卵を産み付けて
それが、すぐに孵り、ウジがたかっていたのでした。

私はウジがたかるということが、実際にはどういうことなのか
その時までは知らず、タヌキの赤ちゃんが
今現在、どんな状態になっているのか、病院に連れて行くまでは
目の前で見ていても、分かっていなかったのでした。

ようやく、面倒を見てくれる病院を見つけ、
連れていったときに、獣医さんは、
「実際には、この子のお尻はここまであるはずだったんです。
お尻の筋肉は、もうずいぶんとウジに食べられてしまっています。
この子は、ずいぶんと痛いはずですよ。」
と言って、手でどれくらいお尻が削られているかを示してくれました。

その示された、本来あるはずのお尻の盛り上がりと、
その時の、お尻の状態には、ずいぶんと差があり、
私は、それを聞いて、ほんとうに唖然としてしまいました。

そんなにひどい状態だったにも関わらず、
その子の意識だけはハッキリしていて、
途中、何度か、ジッと私の目を見ていたりもしていたのでした。


それにしても、あの小さなハエやウジが
ここまで凶暴というか、そこまでひどいことをするなんて、と、
ちょっと怖くもなってしまいました。

タヌキの赤ちゃんは、意識はハッキリしていたとは言え、
ずっと苦しんで鳴き続けていました。

にもかかわらず、私たちが行くまでは、
ハエたちは、さらに、その子の周りを飛び続け、
さらに卵を産み付けようとしていたのでした。

私は、どうしても、ハエには感情移入ができないのですが、
どうも、ハエの方も、相手がどんなに苦しんでいようが、
それは伝わっていかないようなのでした。

でも、それが弱肉強食の自然界の性なのかもしれません。

その時、この世のすべては苦しみである、という、
仏教の教えが頭を横切っていきました。

自分たちが生き抜くためには、自分たちより弱い立場のものを
こうやって食い物にしていくことしかできないこの世界の仕組みを、
イヤというほど、目の前に見せつけられている気がしたのです。

私たち人間も、その例外ではなく、単に弱肉強食の
頂点に立っているから、普段はそれが見えにくくなっているに過ぎません。

こんな仕組みで成り立っている、この世界が完璧なはずなどない。

この世界に執着するということは、
この物質優位の世界に執着するということは、
自分と自分の身内が生き延びていくために、
他が犠牲になるのは仕方がないことだというエゴだけが
増大していくに過ぎないのだということを
イヤというほど実感させられた気がしたのでした。

だから仏教では、この世界を離れなさいと
言っているのだと感じたのでした。


その時は、ちょうど、チベット仏教の大聖者である
ミラレパの本を読んでいるときでした。

ミラレパの本の中でも、弟子のレーチェンパが
現世遮断ができていない部分があることを師のミラレパが感じて、
レーチェンパと二人で市場に行ったという話がありました。

その時の市場では、羊が目の前で殺され、
肉にされて売られていたそうです。
その中で、斧で打たれて、瀕死を追った羊が、
ミラレパに 助けを求めて駆け寄って来たそうです。

その哀れな光景に、ミラレパとレーチェンパは
二人して涙したそうでした。

羊は、大聖者であるミラレパが、その意識を高い世界に移して、
苦しみから解放させ、往生させてあげたそうです。

そして、二人が哀れに感じたのは、その殺された羊だけではなく、
せっかく人間に生まれてきながらも、
動物を殺すことを生業にするしかできず、羊を殺していた男にも
強い慈悲の念が生じ、涙を流したそうでした。

その男は、そのカルマ(因果)によって
来世は苦しみの世界に転生するしかないからです。


そんな話が、目の前で起こっていた
タヌキの赤ちゃんがウジに、生きながら食べれれていた出来事と
私の意識の中では、リンクしていったのでした。

しかし、そんな出来事がきっかけとなって、
その後、信じられないような体験が起こっ たのでした。


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