『ブレードランナー2049』を観てきました。【ネタバレあります】

 

とっても久しぶりに映画を観てきました。
といっても、見に行ったのは少し前なんですが、
バタバタしていて、なかなかブログを書くことができませんでした。

 

それまでは、前作の『ブレードランナー』の存在すら知らなかったのですが、
友人に紹介されて、興味が出たので、
まずは『ブレードランナー』を自宅で観て、それから
『ブレードランナー2049』を観るべく、映画館へと直行しました。

観てみると、娯楽映画のはずが、
心とは何か、魂とは何か、人間とは何かということを
真剣に考えさせられてしまい、とても哲学的なものを感じてしまいました。

『ブレードランナー』では、人間が作ったはずの
レプリカントという、いわゆるサイボーグのような存在が、
自らの感情を持ってしまったことによって氾濫を起こすという、
簡単にいえば、そんな話です。
そして、そんなレプリカントを処分するのが、
タイトルになっているブレードランナーと呼ばれている人です。

しかし、その世界観は、細部に至るまで、本当によく考えられ、
練り込まれた上で構築し、作られた映画なんだと感じさせてくれました。

魂など存在しないという人には、どうでもいい話かもしれませんが、
生きものが受胎し、母親の子宮の中で成長していく過程において、
どの時点で魂が宿るのかということは、
いろんな宗教においても、諸説があると思います。

果ては、小さな虫にも魂はあるのか、
また、虫よりも、もっと小さなアメーバのような
単細胞の生物にも魂は存在しているのか。

そしてまた、心という点においては、
動物たちとは縁遠い生活をしている人の中には、
動物たちにも、人間と同じような感情を持っていることを
想像できない人もいるようですが、
たとえば、ワンちゃんやネコちゃんを飼ったことのある人なら、
その子達の持つ感情は、人間と変わらないものであることに気づかされます。

そんな魂や心というものが、人間が作ったレプリカントに存在しているのか。
感情が存在したとして、その感情は本物と言えるのか。


【ここから先はネタバレになります。】


映画の中では、レプリカントは人間が作ったものだから、
魂など始めから存在しない。
なので、ロボットと同じ道具とみなし、奴隷以下の扱いしかされません。
用がなくなったり、邪魔になれば、廃棄処分と呼ばれる殺処分です。

しかし、彼らの中に芽生えた感情の発達というか、成長は、
とても早いものであると、
まず前作の『ブレードランナー』でも、見て取ることができました。
人間の最高レベルの知能を持って作られたレプリカントのロイ・バッティは
始めは自分たちのことしか考えず、自分たちを仇なす人間に対して、
平然と殺戮を行っていました。
それはまるで、まだ自分のことしか考えられない小さな子供が
小さな生きものを残酷にいたぶっている様子と
重ね合わせて見ることもできました。
しかし、それが最後には、自分を「廃棄」、あるいは「駆除」しにきた
ブレードランナーであるデッカードを助けるということをしただけでなく、
その上で、自らの死を前に、自作の詩を朗読し、命を終えます。
そこでは、残酷な子供の感情から、
急速に大人の心へと変容を遂げていたのです。

しかし、それでもなお、レプリカントは既存の人間たちからは
驚異であると同時に、自分たちの都合の良い
奴隷以下の道具としかみなされないというところから、
『ブレードランナー2049』は始まります。

『ブレードランナー2049』の主人公であるKは、
始めは人に対して従順なレプリカントであり、
あまり従順ではない古いタイプのレプリカントを廃棄する
ブレードランナーでもあったのですが、
そこで、いろんなことがあり、自我が目覚め、
そして、その自我というか、心が成長していく様が、
本当によく描かれていました。

それを見ていると、一般の人間のように、よけいな感情や囚われがない分、
心はストレートに成長していくのかな、などと、
作り物の映画の世界のはずなのに、真剣に考えたりもしてしまいました。

とくに印象的だったのは、人権というものなど、
まるで持つことのできないレプリカントが
自分たちの存在意義というか、「人間である」ということを求めて、
地下で反政府勢力を作り上げているわけですが、
そのリーダー格のレプリカントのセリフです。

「大義のために死ぬことが、もっとも人間的な行為だ」

この言葉を聞いた主人公のKは、その後の展開の中で
何度も心の中で反復していたようで、
回想シーンとして、この言葉は何度か出てきます。
そこからも、Kの、「真実の人」になりたいという
心の痛みのようなものを感じることができます。

しかし、Kが選んだ選択は、他のレプリカント達のための大義ではなく、
自分自身が大切だと感じた人のために戦う選択をします。

もしも、そこで、他のレプリカント達のための大義の道をKが選んでいたら、
その感情は、やはり作り物のように感じてしまった気がします。
しかしKは、そこでは自分が大切な人のために戦うことを選んだからこそ、
そこに存在していたのは、作られた心ではなく、
本当の自分の心のように感じられたのでした。

ただ、この場合、社会のためという大義があるならば、
「作られた心」でも良いんではないかと考えることもできます。
でも、そういう心が、無理に自分の中で、
あるいは何らかの外圧によって作られたものであったとしたら、
何かあったときに、すぐ壊れてしまうような気がしてしまいます。
逆に、自分自身の経験の中で育ってきた心というようなものは、
そうそう簡単には壊れることはないと、
これは、私の持論ですが、そんな風に感じています。

そういう意味では、それが、世界を変えるためという、
とてつもない大きな大義であったとしても、
それが、その人の経験から育てられた心であるのであれば、
それは、作られた心ではなく、真実の心であると言えると思うのです。
(あくまでも私の持論です。)

ただ、この映画の中でのKは、まずは、他を愛するという感情を育むための
経験を積んでいました。

そして最後には、その感情は、自分の大切な人のために、
自分を投げ出すことも厭わないところまで成長していました。

でも、そういうことって、普通の人間でも、なかなかできないことで、
どうしても自分可愛さ故に、他のことは顧みることができないものだと思います。

この映画に出てきたレプリカントの多くは、そんな風に、
本当の人間と言われていた人たちよりも、他を愛する心を強く持っていて、
それ故に、本当の人間よりも人間らしいと思えてしまうところに、
深く考えさせられてしまう大きな要因があるように感じてしまいました。

でも、そういう心を持った人が多く集まったときに、
もしかしたら、新しい時代が作られていくのかもしれないと、
そんなことも考えさせられた映画でした。

そして、この映画を現代に置き換えてみれば、
クローンにも魂はあるのか、ということにも繋がってくる映画でした。
私は、当然、クローンにだって魂は存在すると考えているので、
レプリカントにも魂は存在していると思って、最初から最後まで観ていましたが。


今回は、こんなに長々と書いてしまいました。
でも、まだ1回しか観ていないので、また観る機会があれば、
今度は別の感想がでてくるかもしれません。
それくらい、たくさんの伏線が、後で思い返すとあったと感じる映画でした。